著作権のない世界


昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」とて行きけり。もとより友とする人、一人二人していきけり。(中略)その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人の言はく「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心を詠め」と言ひければ詠める。

から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

お馴染みの「伊勢物語東下り」だが、この有名な一節は後に様々な作品に引用されて用いられている。



さりとて、文屋康秀が誘ふにもあらず、住むべき国求むるにもあらず。(『十六夜日記』)

夜もふけぬれども、はるばるきぬる旅衣、思ひ重ぬる苔むしろは夢結ぶほどもまどろまれず。(『とはずがたり』)

都の方は山のあなたと思すにも、「はるばる来ぬる」とや御心の内に眺め給ふらむ、知らずかし。(『墨水遊覧記』)


現代の感覚で言えば、著作権侵害も甚だしいが、それは今の我々の感覚で考えるからであって、阿仏尼も、二条も、北村季文も、美しく重層的な世界を表現しようとして、過去の偉大なる作品のフレーズを利用したのであって、悪意は無い。

著作権の概念を通して古典作品を眺めて見れば、源氏物語以降の長篇物語などはキャラクター設定からフレーズのひとつひとつに源氏の影響が垣間見られ、とても出版できたものではないだろう。またその源氏物語からして、過去の伝奇物語からの影響を伺わせる表現を多く含んでいる。

ふと現代文の著作権論争に疲れた瞬間などは、このような日本の古典文学のおおらかな発想がうらやましくなる。まさに文化は蓄積し熟成してまた新たなる表現を生み出してゆく。一人の人間が生み出した「ことば」がこうして時代を超えて、多くの人々に共有されてゆく。これはこれで素晴らしいことだったと思う。

最近は死後五十年どころか、七十年まで著作権を延長しようという動きもあるという。作家の皆様が生み出した「言の葉」を棺桶の中でまで、あまりにしっかりと握りしめておられると、その「言の葉」が鳥辺山の煙りとなり、あだし野のつゆと消えてしまいそうで、あまりにも「あはれ」な感じがする。