没後五十年の作家を中心とした出題を

九鬼周三、末弘 厳太郎寺田寅彦泉鏡花夏目漱石高村光太郎西田幾多郎岸田劉生河上肇中井正一岡倉天心折口信夫萩原朔太郎有島武郎、戸坂潤、坂口安吾三木清五十嵐力佐藤春夫丘浅次郎、前田利鎌、穂積陳重…ここ20年程の大学入試問題で出題された作家の中から、目につくままに「没後五十年」を経て、著作権の切れた作家の名をあげてみた。(基本的に評論文を中心に選び、小説はここに入れていない。)錚々たる顔ぶれが揃っている。まさに日本の近代の知を代表する人々ではないか。下手な現代作家の文章を使用して著作権云々でもめるよりも、上記の人々の文章を入試に使った方が建設的ではないか。そこで、大学の先生に是非お願いしたいのだが、上記の方々の著作から今後の入試現代文の問題を出題してはもらえないだろうか。もちろんまた同じような時期に亡くなっていながらこれまで入試であまりとりあげられていない作家から出題してもいいだろう。

あと4年程経つと和辻哲郎、5年後に津田左右吉、6年後に柳田国男などが没後五十年をむかえる。現代の日本の思想の根幹を作って来た人々の文章を「現代文」で出題して悪いことはないはずだ。彼らの掲げた問題意識の中には今の日本にも充分通じる重要なものがまだまだ多く残されていることは、大学の先生方ならご存じだと思う。どうしても最新の時事問題や思想を取りあげたいのであれば、小論文で問えばよい。

そんなことを思っていたら、なんと東京大学が2005年に「三木清」を出題した。これまでの東京大学の出題傾向からすれば、明らかに「事件」だ。というのも、これ以前の東京大学は学問の最先端を行こうとの自負からなのか、比較的新しい作家の文章を中心とした出題が基本だったのだ。これが京都大学だと以前から比較的古い文章を好んで取りあげていたので、あまり驚かないのだが、遂に東大が動いた!ということを知って僕は鳥肌が立った。これはたまたま1年だけの傾向なのか? それとも今後も続くのだろうか? もし東大・京大が没後五十年以上の作家を中心とした出題を続け、他の大学もそれに倣うようなことになれば、「本文の載っていない過去問集」や「異様に価格の高い過去問集」に受験生が苦しめられることも無くなっていくかもしれない。

下記URLでも同様の主張をされている方がいらっしゃいます。
辰己丈夫の研究雑報 http://ttmtko.air-nifty.com/a/2005/09/post_fe66.html

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