入試制度改革

良きにつけ、悪しきにつけ、入試制度は国の形を作るひとつの要素であることは間違いないだろう。現状の入試制度はいったいどんな国の形を作っていくのだろう。

賛否両論の「ゆとり教育」を受けた世代がいよいよ大学受験に臨む時代となった。「生きる力」を唱い、学校では学習内容は削減され、体験学習、総合学習が行われている。しかし、学生生活のひとつのヤマとなっている大学入試の制度は、それに見合うだけの変化を起こして来たのだろうか? 「次の文章を読んで後の問に答えよ」「最も適当なものを選べ」式の「現代文」から抜け出してはおらず、学校教育を通じて育まれてきたはずの「生きる力」を問うような形の大学入試が行なわれているようには思えない。

例えば、このブログの中で提案してきた、「小論文・哲学の必修化」や「書き下ろしの文章集」についても、採点の手間などでなかなか実現するには大変なことなのだろう。しかしインターネット時代に即した著作権最優先の風潮を考慮すれば、大学入試の側も「生存中の作家の文章を切り取ってきて読ませて答えさせる」というスタイルに甘んじているわけにはいかなくなるだろう。

この著作権問題を大学入試改革のきっかけとしていくことはできないか?

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【入試制度改革・現状の問題点について述べているblog】


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純真なる食えない人々

日本ビジュアル著作権協会」で赤本などを訴えている人々の中には、およそ、そのような生臭いことをしなさそうなイメージのある人達も多い。この点について「この人達はその名がよく知られている割には経済的には恵まれていないのではないか」との仮説を立てた人がいる。

言われてみれば、確かにそんな気もしてしまう。詩人、劇作家、児童文学、民話研究など(意外に大学教授などの立場についている人物はほとんどいない)、確かに「食えない」雰囲気を感じるジャンルだ。彼らは自分の「本職」では充分に稼げていないのだろうか。これだけ有名な人達なので、まさか全く食えないという程ではないだろうが、世間でイメージするほどには恵まれない生活を強いられているのかもしれない。そんな状況でどこかの誰かに「先生はもっと稼いでいいはずですよ」などと焚き付けられて、入試過去問に関連した訴訟にその名を列ねることになってしまったのではないか。そんなことを想像してみたくなる。

もしそうであるならば、日本は本当に文化的に貧しい国であると思う。その身を削って文筆に携わって、素晴らしい作品生み出した人達が「食えない」状況にある。だが、その不満の鉾先が真先に受験生や教育業界に向くならばこれもまた情けない事態である。

日本ビジュアル著作権協会」のサイトによれば、「知的財産権を守る議員の会」というものが立ち上げられ、「知財立国」にむけて活動を行なうとのことだ。

http://www.jvca.gr.jp/news/newsview.asp?id=105&parent=1

しかし、本来政治家達のやるべきことは「純真なる」詩人達を焚き付けて訴訟へと駆り立てる方向に乗ることではなく、彼らの作品がもっと売り上げをのばして本職でキチンと食えるように、お小遣いを「詩集を買う」「演劇を観に行く」という方向に使うような子供達を教育できるような国を作り上げることではないか?

知財立国」が時代の趨勢であるのならば、それは認めよう。だが、「詩を読もう」と思う人間のいない国では詩人は生きていけない。政治家達には詩人の権利を守る方向に動くのであれば、詩人という存在の需要を確保するような活動も行なってほしい。


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過去問や問題集による学習

憂うべきことかもしれないが、日本人が一番勉強するのは、大学生の時よりも、受験生の時であると思う。この際、過去問や過去問を基とした問題集を使用する。(これは国語に限らず他の教科も同様である。)そして、読書をする習慣の乏しい日本の少年少女が評論や小説を最も真剣に読むのも受験生の際に過去問の演習を通じてのことであると思う。著作権の都合によって過去問の使用ができなくなることは、そんな貴重な時期の学習に支障をきたすことにもなり、日本の国語教育にもマイナスとなるだろう。

「教養としての大学受験国語」の著者である石原千秋氏は大学受験国語の中で選ばれやすい文章として、「受験生の心に残る文章であること」という点をあげ、「入試問題は、合格した受験者だけでなく、不幸にも不合格になった受験者にも真剣に読んでもらえる唯一の文章なのだ」と述べている。

過去問や問題集に真剣に取り組み、なんとか自力で読み進むことができるように悪戦苦闘する中でかろうじて日本人の国語力は今までの水準を保ってきたとも言える。もし現代文の過去問が使えないということになったら、将来の日本人の国語力はどのくらい低下するのか、恐ろしくなる。

受験生も指導する側も過去問や問題集に依存した勉強にあまりに慣れ過ぎている。これまで培われたノウハウが無駄になってしまうのも、もったいないことだと思う。もし過去問や問題集の使用が不可能であるなら、それを補うための何か新しい形の国語教育を真剣に考えていかねばならないと思う。

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【過去問や問題集について述べているblog】

過去問の著作権について様々な視点

入試問題と著作権の問題についての僕の意見と対案はこちらに記した。

入試問題の著作権についてweb上では他にも様々な方が語っておられるので、バランスを取る意味でも、いろいろな視点からここにリンクをまとめていこうと思う。

  • 入試問題と著者

    実際に自分の文章が、入試に使われた方の率直な感想を読むことができる。僕も学習院の過去問としてこの方の文章に出会ったが、実にいい雰囲気の文章だったことが記憶に残っている。


  • 入試の問題

    入試を体験した方ならば、必ず一度は目にしたことがあると思われる外山滋比古氏が「全国学習塾協会」に寄せた特別寄稿。国立と私立の入試出題後の対応の違いなどが読めて面白い。


  • 渦状言論:河合塾の模試?

    動物化するポストモダン」の著者として知られる東浩紀氏が予備校の模試に自分の文章が掲載された際に「萌え」に注が付いたことについたことなどについて語っている。御自身も柄谷行人との出会いはどこかの模試だったとのこと。


  • MORI LOG ACADEMY

    森博嗣氏が御自身の作品が入試に出題されたものを解いた体験を綴っている。「国語で良い点を取れなくても、少なくとも小説家にはなれる」とのコメントが痛快。

  • みつとみ俊郎のダイアリー

    プロデューサー、作曲家、フルーティスト、音楽ライター、料理研究家のみつとみ俊郎氏が御自身の作品を入試問題や模試などで使用されたことについてコメントしています。「入試は営利事業ではない」という特例についての違和感を述べるとともに、「著作権者に代わって裁判などを代行する団体」に入会した経緯を語っています。

  • 稲葉稔の日記もどきda!

    作家・稲葉稔氏が御自身の作品を入試問題や入試問題集に無断で使用されたことについて、不満を表明されています。「著者の許諾なしに、作品を使われては遺憾である」とのことです。

  • 板生清の”到来!「コンピュータを着る」時代”

    御自身の著書から青山学院大学の国語の問題が出題されたことについての喜びの声を読むことができます。「こうした入試問題をとおして、若い人たちに新しい概念を紹介できることはとてもうれしいことです」とのこと。問題にもぜひチャレンジしてもらいたいとのことですので、ここをご覧の皆様も問題を入手して、感想などをお伝えしてみてはいかがでしょう?

  • 認知的体験

    海保博之氏が御自身の作品が予備校の本に採用されたために1600円を受け取ったことについて述べています。「少額印税寄付金機構を作り読書運動の支援に使う」などの有効の使い方はないものかと提案されています。

  • 夏目房之介の「で?」

    マンガの批評研究で知られる夏目房之介氏が北海道大学の入試問題に御自身の作品が使われたことについて話題にしています。この北海道大で入試問題として取り上げられた部分では「マンガは誰のものか」という問いによって、「創作・表現と著作権の問題」についても触れられており、このblogのテーマとも関連する重要な問題が入試問題として取り上げられています。

  • 設問の土台


    池澤夏樹氏が現状の国語教育の問題点について語るとともに、御自身の文章が入試問題に使われるようになったことについての様々な思いについて語っておられます。特に「筆者を隠すのは、それはない」と、出典が明記されていないことについて、痛烈に批判しています。(ちなみに、池澤夏樹氏の小説「スティル・ライフ」は2002年のセンター追試験で出題されたが、一部の過去問集では掲載不可となった。)

  • リヴァイアさん、日々のわざ

    川端裕人氏が御自身の作品がドリル・プリントなどの教材に使用されることについて述べられています。「受験問題としてぼくの作品と出会うのってどうなんだろ。」と述べられながらも、「どんなかたちでも人に届くのが大事という発想でオーケイを出してる。」ともおっしゃっています。

  • たからしげるブログ

    作家たからしげる氏が御自身の作品が高校の入試問題として使用され、問題集に転載される際の許諾にまつわるお話を書かれています。

  • 『なぜあの人とは話が通じないのか?』 by 中西雅之-Blog版

    『なぜあの人とは話が通じないのか?』の著者である中西雅之氏が御自身の作品が入試に使用され「お礼」や「問題集の掲載許可」の手紙を受け取った旨書かれています。「自分が知らないうところで、多くの人の目に触れ、入試問題になっていたなんて想像するとうれしいやら照れくさいやら、複雑な気持ちになります。」とのこと。

  • Blog水族館

    水族館のプロデュースなどで知られる中村元氏が御自身の作品が入試に使用され、御自分でも解いてみた体験について語っておられます。「もしかしたら、満点取れないかも」とのこと。「入試に出るから、中村元の本を読ませることにしましょう」ともおっしゃています。(大変楽しい語り口で語っておられます。僕も思わずこの方の著作を読んでみたくなりました。)

  • マブサビアン

    篠原資明氏が、このところ自著の受験問題集や参考書への使用許諾が送られてくるとの旨を語っておられます。2003年の東大-文科で『言の葉の交通論』が出題されたことについては、「自著の中でいちばん難解な本であり、この本がわかるようになったら、弟子にしてあげる」とのこと。

  • Shigekiの日記

    御自分の文章が大学入試の小論文に使われたとのことです。「国語に出題され、下線部で筆者は何を言いたかったのか、という設問の対象にはならなかったようで、安心した」とのことです。

  • Perspective of idea 立体的な思考のために。

    "Some Rights Reserved"というスタンスで、御自身の作品を公開し非営利での使用を認めておられます。著作権を強く訴える方が増える一方、こういったスタンスの方も増えてくるのかもしれません。

  • はてなbk1

    はてな」のbk1に寄せられた質問事項のひとつ。「自分の書いた文章が国語の試験に出題されたので自分で解いてみたところ、自分の答えは正解ではなかったという主旨のことを書いているひとはいますか。」という質問。確かによく言われることだが、実際にその旨を自分の著書に書いている人はどれくらいいるのか。(ちなみにこの記事の中で話題にあがっている遠藤周作氏については、その旨書かれている本を発見したので、「遠藤周作氏の受験産業屋批判」として記事にまとめた。)

  • 教育における著作物の著作権処理に激震

    あのZ会が和解金約6000万円を払うことになった記事を読むことができるとともに、教育関連に使用する著作物の著作権処理について書かれている。

  • 「和顔愛語 先意承問」の精神で。

    Z会のスタッフの方が、著作権を守ることの大切さとともに、著作物の使用料を払うために商品の価格が高くなってしまうことへの苦悩を述べられています。


  • 国語問題集などの二次利用

    NPO日本文藝著作権センター」の記事だ。「日本ビジュアル著作権協会」と、同様の主旨の団体のようだが、著作物の使用料など両団体スタンスは若干違うようだ。

  • 著作権を巡る 現在 直面する問題を考える

    「2004/11 塾ジャーナルより一部抜粋」された記事が読める。日本文藝家協会常務理事である三田誠広氏と東京私学教育研究所所長の堀一郎氏を招き、行なわれた講演会の一部が掲載されている。

  • 海外著作権連絡協議会

    出版、通信教育、予備校、塾等を経営する企業・学校12法人が設立した英文著作権等を中心とする海外の著作物利用に関する共同許諾申請及び情報共有を行う任意団体。英語の先生は是非ご覧になって下さい。

  • 日本著作権教育研究会

    著作物の適正利用を推進する立場から、著作者の連絡先の調査から、使用許諾、税務処理まで含めて、著作物の使用許諾申請代行業務をおこなっているとのこと。

  • 著作権教育フォーラムブログ

    教育の分野における著作権の問題を扱っている。「権利団体」と教育現場との対立についても冷静に建設的な視点で論じられている。

  • ののちゃんの自由研究

    asahi.com」の記事。子供にも理解できる具体例や平易な表現で「著作権」について語ってくれる。ここに国語のテストの著作権を巡って谷川俊太郎氏らが出版社を訴えた例がひかれ「裁判所は、谷川さんらの主張を支持し、出版社側に合計1億1500万円を支払うよう命じました」と説明されている。優しい語り口で語っている割りに、突然「1億1500万円」と具体的な金額が出て来て、ドキッとさせられる。オブラートに包んでもキツイものはキツイ。子供達よ!これが大人の世界だ。肝に命じて生きるのだよ。

  • "天声新語"に高校生2千人が挑戦 作文力、構想力競う

    早稲田塾」は朝日新聞と提携し、天声人語を使った文章コンクールを開催している。これからは、このような動きをしていかないと塾・予備校は教材を確保することもままならなくなるのかもしれない。



【ブログでこの件について論及しておられる方々】*次々、追加していきます。

【様々な著作権問題を扱っているblog】

入試問題=バナー広告?

「入試問題=バナー広告」というのは、少し大胆過ぎる発想かもしれない。

僕は「著作権でもめる可能性のある現代作家の文章を入試で使うのはやめたらどうか」との提案をしたが、逆に「入試で使ってもらいたい」という作家の方もおられるのではないかとも思う。単純に考えて、自分の名と文章の一部を、受験生に知ってもらうことができ、また、その後何年も過去問として、後の世代の受験生に知ってもらうことができるのは「おいしい」と考えることもできるはずだ。このまま著作権でもめることを避けようと大学や塾・予備校が、現代作家の文章を取り上げないようになれば、貴重な宣伝の機会を失うことになると考える方はおられないのだろうか。

例えば、多くのインターネットサービスは無料で行なわれているが、「有意義なサービスを提供→アクセスup→ネットの上の一等地として宣伝広告を募る」というようなシステムに支えられている。バスや電車が車両本体に宣伝広告をつけることでスポンサー収入を得るという手法はひと昔前では考えられなかったが今では誰も驚かない。ライブドア近鉄買収でその名を広めたように、現代の情報化社会の中では「人に知られている」ということは何よりも大きな財産となる。

大学側は「自分の名・著作を売りたい」と考える新人作家や新鋭の批評家を募ってコンテスト形式にでもして、「発表は入試当日の出題を以って代えさせて頂きます」という形で文章を募ってもいい。ここから新たなる学問の地平を切り開くような論文が生まれることもあるかもしれない。文字ばっかりの本が売れない昨今、駆け出しの新人作家にとっては、このような形であっても自作が若い人達の目に触れる事はありがたいことだろう。

また、出版社などと提携して「出版社が売りたい作家」の文章をいくつか上げてもらって、そこから入試出題に値するものを、積極的に取り上げるという形をとってもいいかもしれない。

入試は公平性に問題が出てはならないし、学問の場にバナー広告まがいの発想を持ち込むことを不快に思われる方もいらっしゃるかもしれないので、これは実現には困難が伴う案であると思う。だが、多くのブロガーが述べているところでもあり、僕自身も体験していることだが、「入試問題で出会った作品を書店で購入する」ということはやはり起こっていることなのだ。そこに間違い無くひとつの「広告効果」があると思われる。国立大学が独立行政法人化され、否応無しに市場原理が導入されていくこの時代。一般企業では当たり前のように用いられている広告宣伝の手法を入試に持ち込もうという発想はないものか?

著作権のない世界


昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして「京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」とて行きけり。もとより友とする人、一人二人していきけり。(中略)その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人の言はく「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心を詠め」と言ひければ詠める。

から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

お馴染みの「伊勢物語東下り」だが、この有名な一節は後に様々な作品に引用されて用いられている。



さりとて、文屋康秀が誘ふにもあらず、住むべき国求むるにもあらず。(『十六夜日記』)

夜もふけぬれども、はるばるきぬる旅衣、思ひ重ぬる苔むしろは夢結ぶほどもまどろまれず。(『とはずがたり』)

都の方は山のあなたと思すにも、「はるばる来ぬる」とや御心の内に眺め給ふらむ、知らずかし。(『墨水遊覧記』)


現代の感覚で言えば、著作権侵害も甚だしいが、それは今の我々の感覚で考えるからであって、阿仏尼も、二条も、北村季文も、美しく重層的な世界を表現しようとして、過去の偉大なる作品のフレーズを利用したのであって、悪意は無い。

著作権の概念を通して古典作品を眺めて見れば、源氏物語以降の長篇物語などはキャラクター設定からフレーズのひとつひとつに源氏の影響が垣間見られ、とても出版できたものではないだろう。またその源氏物語からして、過去の伝奇物語からの影響を伺わせる表現を多く含んでいる。

ふと現代文の著作権論争に疲れた瞬間などは、このような日本の古典文学のおおらかな発想がうらやましくなる。まさに文化は蓄積し熟成してまた新たなる表現を生み出してゆく。一人の人間が生み出した「ことば」がこうして時代を超えて、多くの人々に共有されてゆく。これはこれで素晴らしいことだったと思う。

最近は死後五十年どころか、七十年まで著作権を延長しようという動きもあるという。作家の皆様が生み出した「言の葉」を棺桶の中でまで、あまりにしっかりと握りしめておられると、その「言の葉」が鳥辺山の煙りとなり、あだし野のつゆと消えてしまいそうで、あまりにも「あはれ」な感じがする。

道徳的直感

法律・権利は大切だろう。お互い自分の利益も守りたい。だが、人はたった一人でこの世に生きるわけではない。他者との繋がりの中にいる。誰かが欲張り過ぎたり、誰かが本来やるべきことを怠ったりして、全体を見失った時に大事な何かが壊れてしまう。僕の道徳的直感はこの問題に対して何かやはり違和感を残している。

訴えられることを恐れながら授業する先生達・入試業務に嫌気がさしている教授達・訴訟のスキを伺う詩人達・第一志望の過去問を解くことのできない子供達…

とにかくこのままでは良く無い。もちろん僕はこのblogの中で、自分の想いを吐き出させてもらっている。しかし、それだけでは酒場で同僚講師と管を巻くのと変わり無い。いろいろな立場の人がいろいろな意見を述べていくことで全体を少しでもよりよい方向に動かせたらいいと思う。blogというメディアはそういうことを可能とするものだと、ほんの少しの期待を持って、僕はこの文章を書いている。