漢文、明治文語文の出題を増やせ

現在の大学入試において、漢文を課すところはほぼ文学部ばかりとなっている。自ずから、受験生も漢文の学習をおろそかにするようになっている。だが、日本人の思想・文化と漢文は不即不離の関係を結んできたのであり、漢文の学習をおろそかにすることは、まさに「国語」という科目の本分を失うゆゆしき事態であると思う。たとえば、道元禅師は漢文を独自の解釈で読み下すことによって、オリジナルな思想を生み出して来たのであり、「読み下し漢文」の文化は日本の至宝と言ってもよいだろう。

もし漢文そのものを出すことが受験生の負担を増すという点で困難であるならば、「明治文語文」の出題を行なってはどうだろう。「明治」という時代は日本にとってまさしくターニングポイントとなる大事な時代であったと思う。長年の鎖国を破られ、欧米の植民地とされてもおかしくない状況で、日本の独立を守りぬいた当時の日本の知識人達の気概、意欲、進取の精神を彼らの書いた文章から直に学ばせることは、グローバル化の叫ばれる現代において、非常に意義のあることだと思う。(数年前までは明治大学法学部が「明治文語文」を出題し、山路愛山中村正直森鴎外、神田孝平、杉浦重剛津田真道中江兆民らの文章がとりあげられていた。)

既に明治生まれの方が少なくなってしまったこの時代、今の高校生の中には明治を江戸時代だと思っている子もいるぐらいだ。日本の近代の出発点である明治はあまりに遠くなってしまった。江戸までの文章は「古文」で出題されるが、明治時代はなまじ「現代文」の範囲に入れられているにも関わらずその文体は現代のものとは違っており、逆に受験生の目にふれることは少なくなってしまっている。

山本夏彦氏は「完本 文語文」の中で、幸徳秋水による「兆民先生行状記」を引き、中江兆民が「西洋人はくどい、俺なら漢文で半分で書く」とルソーを訳すに当って述べた旨を引用しているが、漢文書き下し調の文語文は日本人が欧米思想を受け入れる際の重要な道具となったことが伺える。だが、その明治の人々による漢文書き下し調の文語文を、今の子供達は、古文以上に遠いものとしてしまい受け入れられない状態にいる。日本の良き伝統をこのまま過去に葬ってしまうのは実にもったいないことだと思う。中江兆民はフランス留学を経て、仏学塾創設した後に、東京外国語学校の校長をわずか三ヶ月で辞している。その理由のひとつは漢文(孔孟の教え)を徳育の根本に用いること訴えて文部省と対立したことだったという。現代の日本の受験制度でも必要以上に英語が偏重されているが、外国語の勉強する前に日本人ならば漢文をしっかりと学ぶべきではないだろうか。

漢文は現在の小泉内閣の外交がないがしろにしてる漢字文化圏儒教文化圏のアジアの他の国々と我が国日本との重要な共通項でもある。今後の国際情勢においても漢文の学習は重要な鍵であるとさえ言えるかもしれない。

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【漢文教育について述べているblog】

評論の載っていない赤本?

2006年のセンター試験が終わった。国語第1問の評論は別役実氏の文章だった。別役氏は「日本ビジュアル著作権協会」の活動に賛同し、四谷大塚日能研を訴えている。また同団体は大学受験生にはお馴染みの「赤本」(世界思想社教学社)を訴えていることでも知られる。

以上のことから判断すれば、場合によっては、来年度の赤本は、今年度のセンター試験の評論文が削除されたものになる可能性も充分ある。(すでに代々木ゼミナールはweb上の解答速報にセンター試験の国語を掲載していない。)センター試験の国語は時間配分の見極めが大きなポイントとなるテストであり、過去問の学習が不可能となれば、一番の被害を被るのは受験生である。(*実際に2007年度版の赤本からは別役氏の評論が削除されました。

すでに今年度「志望校の過去問やろうと思ったら載ってないんですけど、どうすればいいですか?」と生徒から相談を受けている。もしも日本で最も多くの受験者を持つセンター試験の赤本の第1問がまるまる削除されるという事態になれば、50万人以上の受験者が前年度の問題を解くことができないという事態に陥る。その時は、もう少し世の人々もこの事態の重大性に気づくだろうか。

もう少し現実的な線として、今後は著作権料分を価格に上乗せした形で入試過去問集が発売されるということも生ずるかもしれない。だが、この場合は1冊の単価がその分上昇するわけであり、受験生の家庭に与える経済的負担は増すことになる。(実際に現代文のテキストが以上な高額になっている塾・予備校も出て来ているという。)経済的理由から過去問対策がおろそかになったために不合格となる生徒も現れるかもしれない。そうなれば、刈谷剛彦氏が「大衆教育社会のゆくえ」の中で指摘しているような階層化の問題にますます拍車がかかることも考えられるだろう。

(ちなみに2006年センター試験国語第2問では文中で登場人物の女子高校生が「"二十億光年の孤独"を読んだ?」というセリフを言う。"二十億光年の孤独"は谷川俊太郎氏の詩集名。谷川氏も「日本ビジュアル著作権協会」で中心的に動いている作家の一人だ。これをきっかけに"二十億光年の孤独"を読もうと思った受験生がいるかもしれない一方で、場合によっては小説の設問も赤本に掲載不可になるかも知れない。)


もちろん赤本だけでなく、他の予備校や出版社の方々もいろいろと懸念されているようだ。
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代ゼミのwebにセンター国語が掲載されてないことに疑問を感じていらっしゃる方も。
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塾・予備校は学校教育の補完として機能してきた

自分の文章を塾・予備校で使われることに抵抗感を持つ作家の方々の中には「塾・予備校は受験テクニックを教えるだけの卑しい空間である」との認識をされている方もいるようだが、僕は「塾・予備校は学校教育の補完として機能してきた」と考えている。

このブログを書いている僕自身は団塊ジュニア世代で、もっとも大学受験生の多い時代の人間である。浪人人口も非常に多く、僕自身も浪人を体験し、予備校へと通った。高校時代の僕は勉強への意味も見出せないまま、窓の外ばかり見ている日々を送っていた。まともに勉強へのやる気も持てぬまま何となく受けた大学受験。結果は不合格で、なんとなく予備校へと通った。

だが、当時の予備校は非常な活気にあふれた空間だった。学生運動崩れの元全共闘講師、大学の先生によるアルバイト、専業のタレント講師、いろいろな講師がいたのだが、どの先生も学校の先生より、はるかに僕の知的好奇心をかきたててくれた。僕は予備校で初めて学問の面白さに気づかされたのだ。(だからこそ僕は学校の先生ではなく、塾・予備校の先生として働いている。)

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勝手な解釈をするな!というなら…

自分の文章を入試問題で使われることに抵抗感を持つ作家の方々の中には、入試問題の中で『筆者の主張は〜』『主人公の気持ちは〜』というタイプの出題がされることに対して不快な気持ちでいる者もいるようだ。だが、作品は読者と作者の間にあるものだ。解釈されるのが嫌なら、発表しなければよい。大手出版社から自分の作品を出すことを選択した限り、その作品は多くの人間の目に触れ、その時代、その文化によって判断されてしかるべきだ。その時代その文化において多くの人の目にふれ解釈されることで作家として食っていけているんじゃないのか。入試問題による解釈だけはダメなのですか? もし解釈を拒否するなら、ひっそりと自費出版するか、日記にでも書いておけばいいではないかと思う。

テクストというものは、作家個人の力だけでなく、文化、社会の力によっても生み出されているものだ。著者はこの文化の中で育ち、この時代の持つ何かが、最後の段階で、著者の心を介することで、作品となっているという側面があるだろう。ならば解釈は避けようが無いことじゃないか。入試という制度を持ったこの国にいながら、入試問題にされることだけを拒絶するというのはどうなのか。もし入試制度のない国だったら、その作品は支持されていなかったかもしれないのに。もし解釈自体が嫌ならば、書評や書店のコメントや帯に貼られたキャッチコピーや文芸評論家様による解釈も拒絶してはどうかと思う。

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明治・大正・昭和初期の小説を出題せよ

現在の大学入試においては、国語の現代文の出題のほとんどは「評論」であって、「小説」の出題はかなり少なくなっている。センター試験と国公立の2次試験は辛うじて「小説」の出題を続けているが、私大ではほとんどの大学が「評論」中心の出題だ。大学において「論理的な思考力」が大切なことは、当然だ。

だが、それ以上に「人間としての感性」という部分をおろそかにしてはならないと思う。日本の宝である過去の偉大なる作家達が自らの魂を込めて生み出した名文の数々にふれることで、彼らの苦悩、人生における発見、時代を超えた感性、古く美しき日本語の輝きにふれる機会を増やすために入試における「小説」の復権を唱えたい。

入試で小説を問うことにいろいろな問題があることは充分承知だ。ただ、入試での出会いというきっかけでも無い限り、娯楽に溢れた現代において、自分のお小遣いで小説を買って読む高校生がどれくらいいるだろうか? いたとしても流行のベストセラー物に留まってしまう者も多いのではないか。明治や大正に遡って小説を読もうとする者となれば、相当にその数は減るだろう。驚くべき話だが、今では小説を出題する数少ない試験のうちのひとつであるセンター試験において森鴎外の「護持院原の敵討」が出題された時には「古文が出た!」と騒いでいる子もチラホラ目にしたし、「明治っていつですか?江戸時代ですか?」などと尋ねてくる子もいるくらいなのだ。

「美しき日本語」とか「愛国心」などという最近流行りのスローガンについて、僕自身は抵抗を感じる部分もあるのだが、そういった思想が時流に乗っていることも事実だ。偉大なる先人達から比べてみれば昨日今日デビューしたに過ぎない人ような文章ではなく、没後五十年を経た、明治・大正・昭和初期の小説家達の文章を出題することは世論の支持も得られるのではないだろうか。

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日本語教育について述べているblog】

小論文の出題、哲学を高校の必修科目に

最近の入試現代文はひと昔前の文芸評論中心のものから大きく傾向を変えて、「現代思想」と言ってもいいほど、哲学・思想系の文章が多い。だからこそ塾や予備校の現代文の授業は「背景知識」を教えテーマについての理解を深めるタイプのものが増え、予備校の現代文の教室は「哲学」さながらの授業が展開されるようになってきている。

確かに、学問を志す限り、哲学や現代思想への理解は必要だと思う。受験生が現代の学問のフィールドにおける問題意識を共有できるかどうかを検証するための重要な踏み絵として現在の入試現代文は機能しているという側面も否めない。また塾や予備校が、高校生や浪人生のために、学校教育では充分に学べない哲学・思想系の知識を補っていることも、評価していいはずだ。

だが、このまま著作権についての規制が厳しくなっていき、生存中の作家の文章が出題不可能となれば、当然、「現代の」学問において問題とされている哲学・思想系の事柄について「現代文」で問うことが難しくなるだろう。

だからこそ「小論文を大学受験において必修とすること」を提案したい。課題文を読ませる方式であれば、前もって著作権についてオープンな考えの著者の作品を課題図書を指定しておく方式にしてもよい。(例えば、法政大学では前もって課題図書を読ませる方式の入試をすでに実施している。同大学では著作権に問題が生じないと思われる作家が積極的に選ばれているようだが。)もしくは、大学教員による書き下ろしのものを使用してもよいだろう。また早稲田大の人間科学でかつて出題された『次の五つの語句をすべて用いて一貫性した意味のある考えを論述し、表題を記しなさい。"脳・感情・人間性・技術・適応"』などのようにキーワードを出して論じさせる形式でもよいし、「デカルト心身二元論について論ぜよ」というような出題でもよい。

日本では「哲学」は必修となっていないが、例えばフランスでは高校で「哲学」が必修となっている。他の多くの国でも大学で「哲学」を必修にしている。いっそのこと、日本でも、国語という科目の中で哲学・思想めいたことを補完することは止め、「倫理」「現代社会」等を統合して「哲学」の授業を行なってはどうだろう。そしてその「哲学」という科目の中で扱われている問題を入試小論文で問う形にすればよいのだ。

下記blogを参照したところ、中学入試においても同様の傾向があるようだ。

瀬戸智子の枕草子 http://ts.way-nifty.com/makura/2004/12/post_52.html

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没後五十年の作家を中心とした出題を

九鬼周三、末弘 厳太郎寺田寅彦泉鏡花夏目漱石高村光太郎西田幾多郎岸田劉生河上肇中井正一岡倉天心折口信夫萩原朔太郎有島武郎、戸坂潤、坂口安吾三木清五十嵐力佐藤春夫丘浅次郎、前田利鎌、穂積陳重…ここ20年程の大学入試問題で出題された作家の中から、目につくままに「没後五十年」を経て、著作権の切れた作家の名をあげてみた。(基本的に評論文を中心に選び、小説はここに入れていない。)錚々たる顔ぶれが揃っている。まさに日本の近代の知を代表する人々ではないか。下手な現代作家の文章を使用して著作権云々でもめるよりも、上記の人々の文章を入試に使った方が建設的ではないか。そこで、大学の先生に是非お願いしたいのだが、上記の方々の著作から今後の入試現代文の問題を出題してはもらえないだろうか。もちろんまた同じような時期に亡くなっていながらこれまで入試であまりとりあげられていない作家から出題してもいいだろう。

あと4年程経つと和辻哲郎、5年後に津田左右吉、6年後に柳田国男などが没後五十年をむかえる。現代の日本の思想の根幹を作って来た人々の文章を「現代文」で出題して悪いことはないはずだ。彼らの掲げた問題意識の中には今の日本にも充分通じる重要なものがまだまだ多く残されていることは、大学の先生方ならご存じだと思う。どうしても最新の時事問題や思想を取りあげたいのであれば、小論文で問えばよい。

そんなことを思っていたら、なんと東京大学が2005年に「三木清」を出題した。これまでの東京大学の出題傾向からすれば、明らかに「事件」だ。というのも、これ以前の東京大学は学問の最先端を行こうとの自負からなのか、比較的新しい作家の文章を中心とした出題が基本だったのだ。これが京都大学だと以前から比較的古い文章を好んで取りあげていたので、あまり驚かないのだが、遂に東大が動いた!ということを知って僕は鳥肌が立った。これはたまたま1年だけの傾向なのか? それとも今後も続くのだろうか? もし東大・京大が没後五十年以上の作家を中心とした出題を続け、他の大学もそれに倣うようなことになれば、「本文の載っていない過去問集」や「異様に価格の高い過去問集」に受験生が苦しめられることも無くなっていくかもしれない。

下記URLでも同様の主張をされている方がいらっしゃいます。
辰己丈夫の研究雑報 http://ttmtko.air-nifty.com/a/2005/09/post_fe66.html

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